ここで、少し、『故郷』という言葉について考えてみたい。
故郷。
それは、一体、なんだろう。
日本?ブラジル?地球?
『世界の一体化』が叫ばれている中、地球を故郷にする人が出現してもかまわない世の中である。
でも、そういう人をかわいそうだと思う人たちもいる。どっちつかずになるからだ。
中立な立場で全体を見ることのできるひと。それが、『国際人』だと思う。
そういう人って、不幸せで中身がからっぽなのだろうか。
『国際人になれなかった日本人』から『国際人になって批判される日本人』が、最近、増えた。
もっとも、宇宙から地球をみたら、国境も国も見えてこないのに、美しい地球の姿に汚れも見え始め、
みんなが一つになって話し合える場があれば、それでいいと思うんだけど…
それには、日本人として、アメリカ人として、ブラジル人として、ドイツ人として…
各国の教育をキチンと受けなければ、人格形成も、いわゆる素晴らしい人は、できないのだろうか。
父親をアメリカ人、母親を日本人にもった子どもの『故郷』はどこになるのだろう。
しかも、『故郷』を一つしかもってはいけないとは、だれも言えないだろう。ただ、どっちつかず…というだけなのだろうか。
『故郷』がない
↓
アイデンティティがない
↓
無国籍
↓
どっちつかず
このような経緯をたどるのが普通だと思う。でも、右のようになってはいけないという。たしかにそうかもしれない。
『日本人として生きて、日本人として考えたうえで、グローバルな問題を考える必要がある』と、最近、いわれた。
べつに、『日本人』のところは、どの国の人であってもよいのだが、考えに一貫性を持たないといけないという。
たとえば、『アメリカ人として生きて、アメリカ人として考えたうえで、グローバルな問題を考える必要』があるというのだ。
そうなのだろうか。わたしには、わからない。現実問題、世界を転々と歩き回る『帰国子女』をもった家庭は昔に比べ、
増えているのである。彼らは、心に『リトル・ジャパン』をもちながら、生活し続けているのである。
必要があれば、英語を学び、インターナショナル・スクールで国際感覚を養っていく。
そういう人たちは、どこに『故郷』をおき、『どこの国の人』として、生きていくのだろう。
彼らが大きくなったとき、聞いてみたい。
そして、『故郷』ってなんなんだろう。
だれかが、答えを教えてくれるのだろうか。
手がかりが見つかるといいなぁと思う昨今である。
( 次回に続く )
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